第一生命ホールからの展望

土曜日はとある合唱の演奏会に行ってきた。

うまい下手という基準よりも、歌われた曲その作品が生き生きと届いたか否か?ということに、結果的に注目することになった。
というのも、ある合唱団が声の扱いに多少の巧拙を感じはするものの、演奏全体としてはとても生き生きと明るい表現をものにしていたからである。
つまり、楽しんでいるのである。

私はこういう演奏が好きなのだ、と思わされた。

もう一つ注目した合唱団は声楽発声志向の先生からはおそらく忌避されるようなファルセット傾向の声でありながら、あたかもくすんだテンペラ画のような典雅なルネサンス宗教曲の表現が見えて、なんとも心地の良い音楽の時間を経験させてもらえたのだった。
声量で聴衆を圧するようなことはないが、かといって蚊の鳴くような心細い声の集合でもない。
必要十分な響きで音楽を確実に届けてくれる演奏だった。

声が美しいとか響きが通るとか、ソロであるならばホールの大きさと伴奏音楽とのアンサンブルが確実に問われるが、合唱音楽はそういう声が集まれば理想の合唱になるとは限らない。

というか、何を目標に音楽の演奏をするのだろう?
もちろん、最低限必要な技術というのは存在するので、技術志向を否定するわけではない。
ただ、演奏行為の中にある喜び、楽しさ、という肉体が持つ喜びを抑えつけてまで、何か完璧な一糸乱れぬ声を求めるべきなのだろうか?

合唱はマスゲームとは違う、と思う。
あるいは、もしそういう基準があるのなら、私はそういう基準には興味がないのだろう。
個性を持った声と言葉が、作品によって生き生きと舞台の上を飛翔する演奏が好きだ。