最近、シューベルトの歌曲を聴いて痛く感動してから、近代フランス歌曲との違いをいろいろと考えていました。
シューベルトの音楽は、実はよりPopな存在なのだと思います。
現実的でありまた庶民的。
ふつうの庶民が感じている感情を想起させる音楽が多い。

フランス近代の歌曲は、より抽象的な傾向が強い。
それは、もちろん時代の違いもあります。
その当時文壇で発表されていた新しい詩が、特に器楽作品を得意とする作曲達をインスパイアしたのでしょう。

シューベルトはそういう形ではなく、世情で愛される旋律を用いて、己の求める感情の発露を素直に音楽にした。
フランスのドビュッシーは、最終的にシューベルト的な意味での歌の瓦解を構想していたのではないか?
朗読が限りなく歌唱に近づいた状態を想定して書いていたと思います。
旋律の性格よりも言葉の音楽性を浮き立たせようとしていたと思います。

ドイツの近代歌曲作品はどうなったか?
フランスが旋法性をより強く復活させ旋法に相応しい柔軟な和声進行を利用したのに対し、ドイツはあくまで旋法に染まらず、半音階的進行から音階の瓦解へと進みました。
ここに、ドイツとフランスの大きな違いがあると思います。
ヴォルフからリヒャルト・シュトラウス、そしてシェーンベルク、ベルク、ウェーベルン、、。

フランス近代、特にドビュッシーやメシアンの影響を受けていた武満徹の作風が世界的に評価を得たとき、ドイツの音楽評論界隈では不評だったようです。
構成力がなさすぎる、というものでした。
ただ美しいという耽美に飽き足らず、音の構築や論理性、整合性のようなものをどうしても求めるのだと思います。

私の直感で書くと、ドイツはより人工美を求めフランスは自然回帰した、と言えるのではないでしょうか?
つまり脳内イメージから解放され外界の自然が創る美の再構成を目論んだのです。