パリの生活3
エコール・ノルマル音楽院の入学は実にカンタンであった。日本人の先輩がすでにパリにいたので先輩の紹介でピエール・プティという文字通り小柄だけど、眼光鋭い校長に面会を求めた。その場で曲を歌って日本の卒業証書を見せたら、演奏家クラスに入りなさい。先生はドゥレンヌ先生につきなさい、ということであった。あらかじめ先輩が面倒をみてもらっていたドゥレンヌ先生に会って話をつけていたので、スムーズに話しは進んだ。そうやってアンスクリといって入学のための事務手続きをして、晴れてエコール・ノルマル音楽院に入学した。月謝も3ヶ月単位で2万とか3万だったように覚えている。さもありなん!週一回の公開レッスンが一人20分だけなのだ。
ドゥレンヌ先生は当時すでに79歳、心臓が悪かったらしくゼーゼーいいながら大きな身体をゆすって一生懸命教える姿が印象的であった。当然声は出なくなっていたが、発声練習と歌をみてもらった。先生のご指定の歌はフランスバロックのもの、そしてルーセルの歌曲、グノーのオペラ、それも珍しい日本ではまったくしられていないものであった。ぼくが持っていったプーランクなどは御嫌いのようであった。モラーヌとこれは趣味が一致していた。ただ、他の生徒に比べて(特にフランス人)ぼくがフランス歌曲を良く勉強していたのはとても喜んでいた。フランス人が日本の音楽学校に来ることなどないだろうが、仮に来たとして山田耕筰の歌曲を良く勉強しているようなものだろう。発声練習も単純なものでしかも、先生がChauffer la voix?とかExercise?聞かれて、Oui!と言わない限りやらないといういい加減なもの!あとは、他の生徒達のレッスンをみているのだけがレッスンのすべてであった。
そんな調子で私は少々焦りがあった。日本にいる時は手伝い手伝いの連続で忙しかったからである。お金にはならなかったが、後から後から色々な曲を勉強しなくてはならなかったし(先生が課題をくれる)、先生がやっていたスタジオの手伝いもあったりで、勉強しないでいる理由がなかったのだ。
ぼくは怠け者なのでやらないで済むとやらないで済ませてしまうところがあったので、パリの生活は慣れてしまうと天国のようであった。毎日昼まで寝ていた。ごはんがおいしかった。友人との語らいも楽しかった。あちこち見歩くパリの街も郊外もすばらしいものだった。だから心中は、これではいけない!と思っていた。このままフランス語を覚えてフランスで暮らせたとしても、だからどうなる?と当時は思っていた。ただ心残りはモラーヌ先生のレッスンであった。パリで声楽の実質的な勉強になったのは、モラーヌのレッスンだけだったと思っている。



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パリの生活2
パリに初めて着いた頃は、実をいうととんでもない所に来てしまった!という思いが正直あった。言葉の苦労である。それなりに語学をやっていったのだが、語彙が少なかったし何より聞き取りが出来なかったのだ。取りあえず音楽学校やレッスンの先生は東洋から来たお金を持って来てくれる御坊ちゃま君には甘い顔するから楽だったのだが、普通に生活していく内に避けて通れないのが、買いものである。これまた最初の頃は街の様子が分からず、離れた所にあるMONOPRIXというアメリカ式の大きなスーパーを見つけるまでは、極々近所の個人商店で買い物をしていた。買い物がスーパーに比べて面倒なことは以前にも書いたと思う。加えて私はタバコが欠かせないので、日本式の自動販売機が当然あるものと思っていたのだが、これがない。どこで買うかというと、TABACという看板のあるカフェなのだ。ここしかタバコを買うところがないのだ。おまけにタバコの値段が、しょっちゅう変わる!これも驚きだった。
今はどうか知らないが、大体、町の中に自動販売機というものがないのだ。理由は、治安上現金が入っている機械が街中にあろうものなら、たちどころに壊されてしまい、使い物にならないことと、元来機械がぼろいこと!の二つであろうと思われる。大体当時は日本に遅れて公衆電話器が出初めの頃であったが、どれ一つとして満足に動く公衆電話を見たことがなかった。日本で知識として仕入れていた、ジュトンというコインをカフェで買って、大体地下にあるカフェの公衆便所横の電話機に入れてかけるのだ。これが、慣れないものにとってはどうも、嫌で、大体カフェの地下が、暗くて恐ろしい気がしたものだった。
それから日本に電話連絡を入れるのにアパルトマンには電話を引いてなかったので、これも公衆電話からしか出来なかったのだ。ところが街の公衆電話器がないので、偶然近所にあったパリ中央郵便局にある電話サービスを利用した。
これがまた、大時代なもので当時(1983年)ですら、日本から来た者にとって信じがたい代物であった。
どういうものかというと、中央郵便局の中にある部屋に電話ボックスが10台くらいあって、まずコレクトコールで東京のどこどこまでお願いします、と申請を出す。すると電話を繋いでくれて、「山中さん東京につながりました、何番の電話ボックスにどうぞ!」と呼び出されるのだ。そうやって、やっとの思いで電話が東京につながるのだ。信じられますか?
こんな日常的なこと一つ一つに言葉を介在させなければならなかったので、東京生活に慣れた外国経験初めての人間にとってはカルチュアショックも甚だしいものだったです。

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パリの生活
前回に、エコール・ノルマルに通うのにわざわざ少し歩いてサンティエ駅まで行き、3番線に乗っていったことを書いた。そして、帰りはわざわざサンティエよりも一つ手前のブルスで降りて、国立図書館の脇を抜けプティシャン通りを通ってヴィクトワール広場からルーヴル通りそしてアパートのあったジャン・ジャック・ルソー通りに出て帰ったものだ。そんなところを冬の寒い日にとぼとぼと歩いていると、ふと自分がヴィクトール・ユゴーになったような気がしたものだった。これが、都会、それも歴史のある都会に住む楽しみであった。どこを見ても歴史の澱がたまっていてそんな風景がたまらず好きだった。まだあの頃(1983)はレアールも出来ていず、ホコリで真っ黒になった古い建物がたくさん残っていた。今のオルゼー美術館も真っ黒に汚れ放題の古い駅のままであった。
パリの右岸からいつもそれを不思議に見ていた。それはまるで長崎の軍艦島のような巨大な廃虚であった。
あんなものを壊さずに美術館に再生する彼の地の人たちの思いは素晴らしいものだと思うのだ。日本だったらそんなもの不吉な過去の遺物として経済原則に合わないとして新築してしまうだろうに巨額の国家財産を惜しみもなく使う
ちょうどパリの100年祭りを機にパリ中が新しく変わっていったのだと思う。
語学学校は、6区にあったアリアンス・フランセーズに1年通った。外国人の中に入って勉強するのは不安でもあったが楽しかった。
みなフランス周辺の国が多くてフランス語はかなわなかったが、その分勉強になった。イタリア人の御金持ちの子女が来るのだけど日本人がかなうわけがない。中国に留学して漢字の勉強を日本人とフランス人が机を並べてするようなものだったと思う。
ただ、カンボジア、イラン、当時のユーゴそしてポーランドから笈を負って来ている若い学生達と机を並べて、おのれの至らなさに恥じ入る気持ちがあった。気楽なもんだと思った。その分勉強すればよかったのだけど、結局ぼくは果たせなかったと思う。
ぼく自身は結婚していたのと、エコール・ノルマルの御気楽な勉強が気に入らず、残るはモラーヌさんだけ、という状況もあった。
都会に住んでいれば回りは生活の臭いだらけである、まだ新婚であったぼくは音楽よりも生活を取りたかったのだ。元々ぼくは音楽を生活の手段以上の何ほどのものとは思っていなかった。それは自分が音楽学校を選んだ時点からなのだ。男として仕事をしなくてはならなかった。給料はあてに出来ずとも、働いたらそれに見合ったお金が欲しかった。
当時はそんな焦りがあったのだ。ところが音楽の世界芸術の世界と言うものはそんな生易しいものではなかった。



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エコールノルマルについて 2

エコール・ノルマル音楽院は、地下鉄3番線のマルゼルブ駅を下りてすぐのところにある。地下鉄3番線は、パリの東端ガリエーニから、西端のポン・ドゥ・ルヴァロワまでを結ぶ路線で、途中、レピュビュリックやオペラ座を通る。家からは1番線が近いのだが乗り換えるのが億劫で、3番線のサンティエ駅までわざわざ歩いて行ったことを覚えている。このサンティエと言うところは、ちょうど東京で言うと、日本橋横山町のような繊維問屋が軒を連ねている。また、新聞社のフィガロの建物もあったと思う。
エコールノルマルの、正式な名前は、エコール・ノルマル・ミュジーク・ドゥ・パリという。これは日本のような4年生の音大ではなく、いわば職業訓練学校のような専門学校である。
フランスの音楽教育は専門学校だけで音楽大学というものはない。国立の音楽家養成所のもっとも有名なものが、パリにあるコンセルヴァトワール・ナショナル・ドゥ・ミュジークである。
パリにある、このコンセルバトワールが、日本の芸大のようなフランスを代表する音楽学校である。
しかし、大学ではないから、日本の音大みたいに一般教養課程とか、外国語の単位を取ったり、まして体育の授業をやるなんて馬鹿げたことは一切ない。実に気持ちの良い教育方針だ。年齢ももちろん小さい時から入れるのだ。
その代わり、すべて受講者が自分で選択した授業に責任を持って出席し一年の終わりに試験を受けて、単位をもらうのだ。ちなみに一年の始まりは、10月であり、終わりが6月である。要するにバカンスは7月〜9月の3ヶ月間である。
授業料も当時は3ヶ月単位で払っていた。一年の最後の試験にあたるものがコンクールと言い、いわば試験官や生徒そして一般聴衆などを前にして歌う公開のコンクール形式になる。したがって、出演生徒すべてが終わり試験官の審査が終わるまで待って、その日の内に行われる結果発表を聞くことになるのだ。
結果、一等、二等、という称号がもらえるが、もらえない場合はもう一度そのクラスを次年度に受け直して、一等賞あるいはそれに準じた賞をもらわなければ単位と認めてもらえないのだ。また、一等賞でも審査員が全員一致で認めた!というのは特別のものであり次年度の授業量に対して奨学金をもらう資格が出来る。
そうやって、声楽の最終段階はディプロマ・シュペリイェールといい、リサイタル形式のコンクールをやって資格を得る。
エコール・ノルマルの学内にあるホールは「サル・コルトー」といって、その名も往年の名ショパン弾きのコルトーを名前に冠するホールだ。コルトーがこの学校の設立に寄与しているらしい、詳しいことは忘れた!笑
設立もそれほど古いものではなく20世紀に入ってからのものだったと思う。
内装がなかなか凝った作りの木を貼ってあるもので、柔らかいが適度な残響のあるとても良いホールだったと記憶している。

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エコール・ノルマルについて エコール・ノルマルの入学は実に簡単だった。校長との面談の約束を取り付けてから校長の前で何か歌うのだ。
そして、校長が、学歴などを見て、「あなたは、何々のクラスに行きなさい!」
と言われるのでその通りにするだけだ。
ぼくは、Diplome d'execution(演奏家クラス)というクラスに入った。日本の音大で言えば、声楽家の公開レッスンをするクラス。それは、週たったの1回!しかも一人1回たったの20分ですよ!
自分が通った学校の悪口いうのもなんだけど、これを一年、しかも先生はなんだかフランス流に良い加減と来ては、
せっかく奨学金をもらう資格をもらっても、さっさと日本に帰りたくなってしまった訳だ!
と・・ちょっと悪口になってしまったが、ドレンヌ先生と言う、当時すでに79歳だったオジイチャン先生は
とても良い人で他のフランス人生徒から嫉妬されるくらい可愛がってもらった。
ぼくがそのクラスを一等賞、それも審査員全員一致でもらえたのも多分、その先生のお蔭なのだ。
地下鉄1番線の終点、ポン・ドゥ・ヌイイというパリの西端にアパルトマンがあり、良くレッスンに行った。
ピアノは、茶色いプレイエルでフランスらしいとても瀟洒な住まいであった。こうやって、書いていると目の前に光景が浮かんでくるものだ。懐かしくて涙が出る。
その先生もぼくがパリを去って、ほどなくして亡くなった。先生も子供がいなくて、奥様と2人暮らしだった、きっと
ぼく達夫婦に子供がいないをの心配してくれたのであろう、帰国後も手紙を良くいただいた。
そしてパリにいる時からぼくが欲しかった、プーランクの「歌曲日記を」わざわざ日本にまで送ってくれたのだった。
さて、エコール・ノルマルの授業は、退屈だったが、同じクラスの仲間と喋るのは楽しかった。みなフレンドリーであったが、概してフランス人は意地悪い気がした。なぜだろう・・日本人ばかりちやほやされたからだろうか?
そんな印象があった。同じクラスに日本人留学生も2〜3人いて、帰りに近所のカフェで音楽談義をしたのも懐かしい
思い出だ。

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初めての留学その6・・・ パリに行って、勉強したのはモラーヌのプライベートレッスンだけではない。当時(1983)は、とにもかくにも留学してパリに着いてからは滞在ヴィザ(Carte d'identite)を取得しなければならなかった。これは申請してから受け取るまでに3ヶ月くらいかかった。この滞在ヴィザの申請のためには必ず学校に通って証明をもらわなければならなかったのだ。到着したのは6月末。音楽学校はもう終わっていたので、アリアンス・フランセーズという語学学校に行って籍を得、滞在ヴィザの申請をした。
アリアンス・フランセーズの授業は聞き取りと、会話、そしてそれらの試験があった。一年間通ったが、みなヨーロッパ内の富裕な子女が多かった。日本人がかなうわけ無い。イタリア人などがなんで同じクラスなのかこちらとしては、不服な面もあった。稀にユーゴスラヴィアなどの東欧そしてアラブなかでもイランからの留学生が多かった。当時のホメイニ政権を嫌う自由主義者の人たちがパリに出て来ていた。それからカンボジアやヴェトナムからの移民の子供たちであった。彼らはパリで第2の人生を生きていく覚悟が出来ているので必死であった。しかし、さまざまな国の人たちと席を並べて勉強するのは楽しかった。女の子達はみな可愛かった。ポーランドからの女の子はとてもフレンドリーでやや西洋人コンプレックスを感じる我々にとって、とても親しみやすかった。プーランクの8つのポーランド民謡の歌詞の発音を教わったのが思い出だ。スウェーデンの女の子は滅茶苦茶きれいだった!ギリシャの女の子は眉毛がきりりときれいだった。イタリアからの女の子にMonsignyというのがいた。バロック時代の作曲家と同名だしその顔はまるで泰西名画から抜け出てきたようで惚れ惚れしたものだ った。
アラブ出身の男に多かったのだが、授業中だろうがなんだろうが、平気で(勝手に)外に出て煙草を吸いトイレに行きまた戻ってくる・・というのを見て少なからず驚いた。別に彼らは不良学生なのではない。それがどうも当たり前のことらしいのだ。ゴミなども、ガムを食べた食べかすの紙をポイと足元に捨てる。マナーがなってないというのは、簡単だが簡単に一つにはくくれない世界の広さをそんなところに感じたものだった。
学校での勉強もさることながら、そういったクラスの仲間達との会話を通して語学が少しずつ身に付いていった。ただ、家に帰ってからもかならず作文だけは欠かさなかった。
かれこれする内に夏休みも終わり、いよいよエコールノルマル音楽院の入学が近づいてきた。続く・・・


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初めての留学その5・・・ とはいえ、喋りたいことは喋っても相手の言っていることが正確に理解は出来ていなかった。モラーヌ先生の発声は良く言えばシンプル、悪く言うと、初心者には向いていない。
発声の手順は以下の通りだ。
姿勢の矯正、これは、壁に首筋と背中、臀部、かかとを付けるように立たされる。5度と9度による発声練習。すべて上向音形だ。そして、母音はAÉIÈEOYUとAEOの鼻母音だ。これはカタカナで表現すると
アエイエウオユウアンエンオンとなる。笑
しかし、先生の発声は実に見事なものだった。上向音形でドレミファソ〜と歌うだけだが、ドの倍音の上にレミファソの響きがきれいにのっている・・・という感じなのだ。一番上の、ようするに5度上の声の響きは根音のドの上に
楽に響いている・・・という風情だ。そして、それが9度の上向音形でも崩れることなく、完璧に実行されるのであった。ドレミファソラシドレ〜である。呼吸が完全でないと、これは相当に難しい。これは言葉で説明するのは難しいが、モラーヌの声楽の奥義がこの単純な発声練習にすべて集約されている気がした。
発声学の世界では、イタリア語でMezza Voce(メッツァ・ヴォーチェ)というが、発声練習ではとても大事である。
先生の発声練習はこのメッツァ・ヴォーチェが見事であった。
あとは、先生自ら「触ってみろ」といって、腰の部分や横隔膜の周囲の筋肉を声が出るとどう使われるのかを
実際に示して下さるのだ。
発声と言うのは、ある程度のレベルまで行かないと、先生が言葉で解説することが、本当の意味で理解できないものだ。スポーツでもそうだろう。マラソンだって足の上げ下げ一つに、実践に裏打ちされた深い理論があるはずだ。これは、言葉を理解しただけでは、理解のうちに入らない。ある程度の実践を経て、難しさがわからないと本当の理解が出来ないと思う。
ぼくは、結局留学した時点では経験が足りなかったと思う。では、モラーヌのところに行った意味はなかったのか?いや、そんなことはない。モラーヌの声を耳に焼き付けていた。ぼくが実際にピアノを弾いてモラーヌに歌ってもらったのだ。これは相当勉強になった。

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初めての留学その4・・・2000年3月25日 9月に入り、モラーヌ先生もバカンスから戻ったので始めてレッスンに行くことにした。電話をかけるとステキナ声の女性が出た。「oui,Je vous le passe...Ne quittez pas..」やった!フランス語が通じた!電話でフランス語通じたのは初めてだったので、たかだか「先生はいらっしゃいますか?」と聞いただけで通じたことがひどく嬉しかったものだった。先生のお宅はパリの南西にある下町イタリア広場からすぐのことろにあるマンションの一階であった。ここは後で知ったのだが、レッスン用の部屋を借りていたのだった。イタリア広場からプランタンデパートの横をボビヨ通りに入り、ヴェルレーヌ広場から先生のマンションがあるRue des butte aux caillesに入る。この通りはなんだかうら寂しい通りで、丈の高い建物が少なく先生に言わしめると、古いパリの面影が残る通りである。通りの中ほどにVilla des Vallencienneというマンションがありそこの一階がモラーヌ先生のレッスン室だった。それほど天井は高いとも思えなかったが、やはり広いマンションで玄関から入り、右手の部屋にこじんまりとしたアップライトが置いてある部屋がレッスン室だった。ここで、それから一年あまり先生のレッスンを受けることになった。先生のレッスンはシンプルである。発声練習はたっぷり3〜40分くらいやる。しかし先生の長広舌があるので実質20分くらいだろうか、その後歌を歌って終わるが、このときも演説が入るのでレッスン自体は一回少なくても1時間。長いと2時間くらいかかる。それでも一回分ということでレッスン代は余計に受け取らない先生であった。レッスンとは関係の無い話だが、私は最初から喋る方が得意で聞き取りは苦手というよりもいいかげんであった。フランス人は喋りが好きだから、とにかく喋る人を見るとフランス語が出来ると思うらしい。フランス語が良く出来るね、と誉められた。夏休みの間に、作文の練習を良くやったのでとにかく質問や言いたいことだけは出来るようになっていたのだ。

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初めての留学その3・・・2000年3月12日 記録的な猛暑のパリにいきなり留学だったので、カルチュアショックと疲れでぼくはダウンした。40度の高熱が何日も続いたので家から持って来ていた座薬を打ってどうにか熱を下げた。当初からの目的であったモラーヌ先生のところもバカンスでいらっしゃらないので、8月に入ってからは暇であった。
実は、留学時に日本から別送り便でさまざまな洋服、特に冬用の服や薬など日用品が届いていたのだが、税関でひっかかっていた。なぜかというと、薬がひっかかっていたのだ。まじめに薬・・・と記入したのがいけなかったのだ。フランスという国は世界に冠たる薬大国であり、薬品の輸入には目を光らせていた。7月のバカンス前からそのために厚生省や税関通いが始っていたが、なれないフランス語のせいと面倒な手続きのために税関を通すことが出来ないままでいた。結局9月に入り、厚生省の担当者のバカンスが終わってから再開した。
その手続きとはこうだ。まず、薬の効能書を当然の事ながらフランス語で書き、それを医者に見せてサインをもらう。そしてそれを厚生省の担当者に見せて、サインをもらいそれを税官吏に見せてOKとなるのだ。
いいかげんに書いた薬の効能書きときたない服装のせいで厚生省の役人に不信感を抱かせ、冷たくあしらわれたのは相当悔しい想い出だが、今考えるとなにもわからない子供だったな・・と反省しきりである。ああいうところには当然、スーツできちっと行かなければ行けなかった、それから、あのころだって日本人クラブなどがあったのだから、相談してから、効能書きをきちんとしたフランス語で書いてもらえば良かったのだ。
ともあれ、知り合いの日本人の紹介で医者を紹介してもらい、そこでサインを受けて再び厚生省に行った。
運悪く担当者がいなかったのだが、担当者を探してくれた他の係官が気を利かせてサインをしてくれたのだ!どうも私がお百度踏んでいることを知っていたようで、気の毒だと思ったのだろう。多分もとの意地の悪いヒステリーの女係官だったらまた、サインがもらえなかったことだろう。そのサインをもらい勇躍税関に行って、荷物を受け取ることが出来たのだった。
そうはいっても、その税関だって、何行ってんだかべらべら喋って分からなかったけど、結構文句いわれながらやっとのことで荷物を受け取ったのだ。荷物係のおじさんもアル中でにやにやしながら、わざとらしく手鍵をピカピカさせてその荷物を探して受け渡してもらったのだ。そのときは本当にあぶらあせものだった・・・パリの西のはしサンラザール駅の更に奥にある貨物駅の税関事務所である。
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初めての留学その2・・・2000年01月30日 6月の末にパリに着いた。飛行機は大韓航空だ。一年有効のオープンだった。一年で帰るつもりだった。
何しろ、留学が初めての海外旅行だったので、着いてそうそうカルチュアショックにやられた。
映画や絵画で見慣れた風景が現実に目の前に現れると人間はショックを受けるものだ。これは感動などということではなくて、いよいよとんでもないところに来たのだな、という覚悟といったらいいだろうか・・・
パリに着いたその日に近所の雑貨屋に行って新聞などを買ったりする。それは日本国内で旅に出て翌朝には新聞を買って読む癖が出たわけ。しかし、買ってよく見れば全部フランス語なのである。
当たり前だが、その当たり前のことが一々驚きに変わっていくことを体験するとショックである。
そうこうしているうちに、7月に入ると、猛暑になった。パリの猛暑は厳しい。今から17年前。パリは東京ほど暑い都市ではないので、どこに行ってもクーラーなどはなかった。7月から通っていた語学学校のアリアンス・フランセーズの教室にはクーラーがないのだ。毎日通ったので、それはそれは暑くて暑くてたまらなかった。
水筒に水を入れて通ったものだ。帰りにはお決まりのようにポンヌフの正面にあるデパートサマリテーヌの地下のジュースの立ち飲み屋に通った。
パリに着いてしばらくは、恐くて地下鉄に乗れなかったのだ・・・だからバスで6区にあったアリアンス・フランセーズに通っていたのだ。
勿論下宿のアパルトマンにもクーラーはない。どこに避暑に行くかというと、近所にあったサン・トウスタッシュ教会の聖堂である。我がアパルトマンは、パリのど真ん中、一区のジャン・ジャック・ルソ−通りにあった。そこからレアール(パリの中心にある大ショッピングセンター)まで歩いて5分だったが、そのレアールはまだその頃は工事中で存在していなかった。

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