パリの生活6
パリに着いたのは、6月末でした。当時飛行機は大韓航空のオープンチケットで18万くらいしたと思います。それでも安い方でした。留学の諸手続きの世話は飯田橋の欧明社というフランス書籍専門店の2階にあった専門のツーリストのような所でやってもらいました。日本の大学の卒業証明などの仏文訳などや、留学先の住宅斡旋など様々な留学に関する相談、諸手続きをやってくれました。今はあるでしょうか?
確かピアニストの故安川加寿子さんのお嬢さんが設立されたと思います。

パリに着いてやるべきことは、滞在証明書(Carte d'idntite)を取得することと、そのために語学学校に入り在学証明書をもらうことでした。ぼく達2人は早速アリアンス・フランセーズという6区のサン・ジェルマン・デプレからほどないところにある有名な語学学校に入りました。最初は何もかもがチンプンカンプンだったので日本人のためのクラスに入りました。今は誰一人として付き合いの続いている人はいませんが、滞在中友人付き合いをした人はたくさんいました。お菓子職人の修行をする島村君、某大企業の服飾デザインのために会社から派遣留学の山田君、その他大勢の料理人や美容師の卵、絵描きさんなどなどと知り合いになり、我が小さなアパルトマンに集まって良くおでんを作って食べ合ったものです。彼らのアパルトマンにも行きました。
みな、小さなステューディイオで屋根裏部屋が多かった。みな夢を持ちその夢について仕事について夜を徹して語り合ったものです。みなどうしているのだろう・・・・あれは、家内が作る手料理だけが目当てだったのだろうか!?(笑)

さて、ぼくにとってどうしても忘れられない人がいます。それは今は亡き作曲家の牧野謙さんです。パリ在住30年近い方でしたが、50代の若さで夭折しました。18区のLamarck Caulincourtのこじんまりとした瀟洒なアパルトマンに奥様と小さな男の子と住んでいました。確か18区のコンセルバトワールの先生をしながら作品を作っていたのだと思います。彼の父君には洗足学園大学入学で世話になり、そしてぼく達夫婦が結婚する時も保証人になっていただいたという、縁のある方です。

奥様はフランス人で、とても血筋の良い素敵な方でした、多分Noblesseだと思います。
牧野さんには、一度アパルトマン近くのイタリアレストランに連れていってもらったことがあります。ムール貝のスパゲッティを食べたのですが、ムールの貝で貝の肉をはさんで食べるやり方を教わりました。
それから、御家族と一緒に、古いルノー5に乗ってパリ郊外にあるラヴェルの家も見学に行きました。
見学の後に、その家の近くの小さな丘の上の草原でフランスパンやハム、おいしいトマトなどを挟んで食べたサンドイッチとワインを飲みながら春満開のパリ郊外の自然を見たことが、脳裏に焼き付いています。

ラマルク・コーランクールの階段になった街の風景と牧野さんの厳しい中にも優しさのある面影が今でも忘れられません。素敵な奥様、一粒種の可愛い男の子・・・幸せな家庭と素晴らしくやりがいのある仕事半ばでガンで倒れていった本人の無念は察するにあまりあります。
ぼく自身が、苦しいながらもこの仕事にしがみつく理由は、牧野さんを初めとしたたくさんの人たちに支えられて来た思いがあるのです。

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パリの生活5

パリの生活の話になると、止まらない。笑
で、私が住んでいた部屋は6階にありました。パリというかフランスというかヨーロッパは日本式の2階から一階、二階と数えます。日本式の一階をフランス語でRez de chausserといいます。6階には3部屋あり、そのフロアーの一番奥の2室あるうちの一室を又借りしていたのです。借り主はムッシュービビルといいました。背の高い目つきのやや鋭い、いかにも商売人風のおじいちゃんでした。

当時(1983年頃)のお金で2600フランで管理費込み(光熱費)でした。当時、フランは25円以上してましたので結構高いのですが大きなBaignoire(風呂おけと便器がある洗面室)と10畳くらいのスペースのステューディオだったので、家内と二人で暮らすにはまあまあでした。そうはいってもベッドもバネが一ヶ所びよよ〜〜んと飛び出ているしセミダブルだったので狭くて寝苦しいものでした。電話とテレビはありませんでした。パリに到着する前にこの部屋は確保してあったので、パリに着いてそうそうにこの部屋に入りました。
第一印象は実をいうとがっかりしました。もう少し広いと思ったのです。でも住めば都。その後足掛け2年を過すことになったこの部屋の思い出はぼくにとっては大事な物になりました。ところでピアノも付いていました。実はこの部屋は僕たちが入る前も声楽家が借りておりその前も声楽家、そしてその前は某有名女性指揮者が住んでいたそうです。いずれも日本人です。
ピアノは楽器屋から一ヶ月150フランやく4000円くらいの値段で借りていました。88鍵ではなく66鍵の小さなものでしたが、このピアノで良く練習をしました。

パリについて最初に買ったのが、実は毛布でした。ベッドはあったのですが、とても使う気になれない汚い毛布が一枚しかなかったのです。どちらかというと、潔癖症の家内が早速買おうと言い出したのです。で、パレロワイヤルからほどないオペラ座通りそれもピラミッド駅側のMONOPRIXというパリで一番大きなスーパーまで買いに行きました。ブルーのそれは、買ってみたはいいが毛がぼろぼろと取れる粗悪品で、ぼくらを悩ませました。

部屋にはダイニング用のテーブルなどというしゃれたものはなく、勉強机の少し大きいものが部屋にあるたった一つ内開き窓に向けておいてありました。ぼくと家内は二人で椅子を並べて窓の外に見える中庭を眺めていつもいつも食事をしました。
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パリの生活4
ぼくが住んでいた所は、一区のジャン・ジャック・ルソー通りがサントノーレ通りから始まってすぐの所でした。
番地で表示すると2.Rue Jean Jacque Rousseauとなります。今でも目をつぶるとそのカルティエの面影が鮮やかに思い出されます。サントノーレ通りに出る突端には安カフェそしてPharmacien(薬屋)がありました。
パリの薬屋の店の前には必ずといって良いほど有料の体重計が置いてありました。当時50サンティーム(1フランの半分)でした。妻と二人で体重を計って楽しんだものです。

アパルトマンの前にはしゃれた古着屋、ここで妻はオペラのギャラコンサート用のビーズ刺繍の素敵な黒のロングドレスを買いました。800フランくらいはしたかな・・・そして斜め前はパン屋、ここでお気に入りはパンドゥミ(いわゆるトーストブレッド)でした。これは小ぶりでしたが、とてもおいしかった。その代わりすぐにカビが生えたものです。その隣はPoulaillerといって鳥料理を中心にしたプロヴァンス料理のレストラン。ここでビフテク(ビーフステーキ)を頼んだら30センチ径の皿に溢れんばかりのビフテキと温菜が載って出てきてぼくは思わず小躍りしたけど小食の妻は目を白黒させて食べられなかったようです。

こうやって思い出すと楽しかった新婚時代のパリ生活が思い出されます。このあたりは東京で言えばどこだろう?神田神保町あたりの感じかな?でもサントノレ通りをパレロワイヤル方面に行くともうそこはパリ一流の場所でした。左手はルーブル宮殿のつながりで大蔵省の建物、そして左手にはパレロワイヤルとコメディーフランセーズの古びた建物が威風堂々とあたりに威厳をはらっていました。

さて、ぼくが住んでいたアパルトマン(アパート)はかなり新しい建物で多分戦後のものでしょう。でもスタイルはパリのアパルトマンに良くあるスタイルで、通りに面して扉があり扉脇にある暗証番号を押すと鍵が開くものです。そこを入るとコンシエルジュ(管理人)の詰め所みたいのがあり、そこの前を通るとエレベータがありました。4人乗るのが精一杯のものでやはり扉がついており自分で開けて入るのです。日本にはこのタイプのものがないので最初はものめずらしかったものです。
管理人は中年の少し疲れたような奥さんでガラガラした人だったけど人懐こくて良い人でした。後で分かりましたがイタリアからの移民だったようです。管理人の仕事は各階の部屋に郵便物を届けることと、ゴミ出しが主でした。

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