声楽は声を楽器にすること、とはよく言われることです。
つまり、ピアノやフルートやヴァイオリンといった物体としての楽器の存在のように、歌声もあるべきという考え方です。

これは、恐らく楽器の発達と同時に歌声も楽器を模して行こうとすることが声楽発声の進化、洗練ということに至ったの結果ではないか?
源流はイタリアでしょう。
ヴァイオリン作りとしては18世紀には最高峰に達したイタリアの職人の技術が、声楽発声の進化と深化に影響を与えたのはごく自然なことと思われます。

そういう長年の音楽文化の伝統の上に現代の発声のあり方があるわけで、突然現代になって科学が発達したから発声が進化したと考えるのは、楽天的というか科学信仰が過ぎると言わざるを得ません。
欧州に行って良い指導者について、あるいは良い歌手の歌声を間近で聴いてみれば分かりますが、その歌声はちょっとやそっとで真似できるものではないことを知ることになります。
楽器という意味は、前述のように欧州の発声の進歩の過程の上に成立した伝統的な発声のありかたを技術的に会得している、という意味です。

一見良く歌えているようで楽器として完成しているかしていないか?ということは、比較すると意外なほど良く分かるものなのです。
しかし、音程があっていて声が安定していて声量もそこそこあれば、失礼ながら普通の耳の人であれば大概は「上手いな~!」と思えてしまうものでもあるわけです。

音楽ですから、別に音楽の形が判れば十分ではないか?
そう言われれば確かにそうなのですが、楽器として完成された技術を持つ人の歌声を一度でも聞くと、やはりその違いの大きさに落胆してしまうことでしょう。

例えばプラスチックのヴァイオリンでも、きちっとした音も音程も音量も問題なく達成できるでしょう。
しかし本物の良く出来た楽器で弾いてみると、同じ楽器とは思えないくらい、深みのある良い音が感じられるはずです。
恐らく、上手く歌っているが、それ以上の魅力を感じられないという歌手の場合、それはその人の楽器としての声が未熟だということでしょう。

声楽もそういう魅力の違いがあってこそ、初めて声楽の醍醐味というものが味わえるようになります。
プラグマティックに音楽を伝えるだけの道具ではないところに、本当の声楽の魅力と美が存在していると思うのです。

このことを身に着けるのは確かに難しいことですが、声の続く限り訓練と研究によって得られるもの、と考えています。