弾き語りを教えることが時々あり、感じることがありました。

それは、楽譜の伴奏を正確に弾いて、それに合わせて単純に歌を歌ってしまうことです。
つまり歌の表現に合わせてピアノ伴奏を弾かない、ということになるわけです。
言ってみれば、文章を朗読するのに棒読みしていることと似ています。

楽譜を見てみると、どう考えても伴奏形のリズムの違いや転調による音楽的ニュアンスの違い、和音構成の変化による表現上の感情の変化が見て取れるのに、
それらを度外視した、無意味に正確な演奏に接すると何とも残念な気持ちになります。

恐らく、ピアノを弾く方は教育初期において徹底したIn tempoを教わるのだと思います。
これが、後年に抜きがたい演奏スタイルを形作るようです。

確かに一定のテンポや粒の正確に揃った細かい音符の演奏は、聞いていて気持ちが良いし、クラシック音楽の品格には欠かせない技術だと思います。
そのことは尊重しますが、一方で音楽の持っている変化やニュアンスというものがどのようなものか?
なぜ変化が起きているのか?
ということを、見失ってしまうくらいに、徹底したIn tempo教育の弊害があるのではないか?と思うことがあります。

また、これはリズム訓練にも関係がありますが、特に日本は拍節を徹底する教育が根強くあるためではないでしょうか?
リズムの持つ複層的な要素を初期から徹底して教えることが、後年の音楽性豊かな演奏につながると思うのです。

それは和音の響きとそれが意味するものを考えられる頭、イメージを持たせることです。
指が動くことだけを教えていると、この点がないがしろになってしまうのでしょう。