歎異抄の第三章にある、親鸞聖人の有名な言葉。
往生を遂ぐ、とは極楽浄土に行くという意味だそうです。
そろそろ自分の人生の先がうっすらと見え始めて、長い間自分の心に引っかかっていたこの言葉に再び興味を持ちました。

このタイトルの言葉の意味は、悪人であっても往生を遂げることが出来るのだ、と思っていましたが、もう一度調べてみて分かったこと。

それは、善人のつもりだから往生を遂げるとは限らない。
全き善人のつもりである人は、自分の悪に全く気付かない。
それは作為的な善人であり、いわば偽善者でしょう。

そういう心は、阿弥陀の心に叶わない。
仮に極悪人であったとしても、その心に深い悲しみと後悔があったとすれば、それは阿弥陀の心に叶うのだと。

もし少しでも自分の悪の面が見えているのなら、そういうものから目を背けないで、むしろ見つめることだと。
そういう自分を否定しないで、共存する道を探すことだと思いました。

もちろん!サイコパスのように怜悧に合理に人の心を殺め、あるいは一分の非も感じることなく悪を遂行する病的な人物のことを
言っているのではないでしょう。

弱い心の持ち主、は阿弥陀の心に叶うのだということではないでしょうか?

原文を下に書いてみました。
意味もさることながら、この文語体の語り口調のカッコよさといったらないですね!
私はこの文語体の語り口調に、中学生のころから惚れていました。
それもあって、歴史に興味を持つことが出来ました。

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
しかるを世の人つねにいわく「悪人往生す。いかにいわんや善人をや」
この條、一旦、その謂あるにたれども、本願他力の意趣に背けり。
その故は、自力作善の人は、ひとえに他力をたのむ心、かけたる間、阿弥陀の本願にあらず。
しかれども、自力の心を廻して、他力をたのみ奉れば、真実報土の往生を遂ぐるなり。
煩悩具足の我等は、いずれの行にても、生死を離るること、あるべからざるを憐れみたまいて、願をおこしたまう本意、悪人成仏の為なれば、他力をたのみ奉る悪人、
もっとも往生の正因なり。
よって「善人だにこそ、往生すれ、まして悪人は」と仰せ候いき。