男の背中

今日は朝から外出する野暮用があった。
冷たい空気に触れてそぞろ歩きしながら考えたことを、幸いまだ覚えていたので書いておきたい。

演奏家にとっての技術というのは、動かしがたい魅力を持った意味があると思う。
その思いの強さの中心には、技術こそが個体差を乗り越える強力な武器であるという考えがあると思う。

名人芸に接するとその名人芸を手に入れたいと凡人は考える。
技術を磨いて精進に励めば、100%とは言わずとも限りなく近いところに到達できるはず、と。
これは理論的には正しい。
でなければ技術を磨くこともしなくなるし、精進を怠った演奏家は演奏家として失格であると。

ただ、これまでの自分の経験から感じたのは、乗り越えがたい技術力が確かにあること。
この理由の一つに、肉体的な相違というものがあると考えた。
肉体的な相違とは、体格も含めた決定的な個人差と、人としての経歴の違いである。
経歴の中には、何歳からどのようにやって来ていたかどうか?という違いとか、例えば運動をやってきたかどうか等々。。
声楽家であるならば、外国語がどれだけ身についているかどうか?という違いも影響は大きいだろう。

我々が一般に考えている演奏家における技術力とは、肉体的資質と不可分なものである。
肉体的資質は一朝一夕で出来るものではなく、親から受け継いだ肉体であるという動かしがたい事実と、幼少時からの長い経歴に大きく左右される。

大人になってからこの肉体的な資質や経歴の穴を埋めようとすることは、その人の寿命に達するくらいの長期間を要する可能性が大きい。
そこまでしても、名人になりたいという個人の野望を貶める意図はないが、その人生はストレスと苦しみに満ちたものになるはずだ。

元気なうちは良いが、気づいてみれば年取って肉体的にも厳しくなってくる。
そうなってからでは、方向転換は効かないのだ。

では諦めるのか?
そもそも名人のようになるという発想自体が間違っている。
唯一無二の存在である自分というものを、クローンのように他人に似せようとすることは無駄な努力である。

今自分が持っている技術で、目の前にある音楽をどのように演奏するのか?ということに尽きるだろう。
つまり、自分が現在持っている技術レベルという縛りの中で音楽をとらえること。
果てしない血の通わない技術競争に終止符を打ち、己の音楽は己の技術の中にあるという発想の転換をすべきである。

卑近な例を挙げれば・・・

ブレスが持たないならブレスポイントを増やす。
高音が出ないなら、曲のキーを下げるか部分的な編曲をする。

速弾きが出来ないならテンポを落とした音楽を考える。
力がないのに無理なフォルテを出さない。

え!と思うでしょう?(笑)

でも、一般のお客さんはこのような行為をなんとも思ってないのです。
名人芸に近づきたいという個人的な欲望は、決して人が望んでいるわけではない。
自己満足に過ぎない。

演奏家の仕事は自己満足の達成にあるのではなく、目の前のお客さんに演奏することの喜びに満ちた姿を見せること、ただそれだけである。