プロンプト

なるほど、良く判りました。しかし音楽は本来耳によって判断することが原点ではないでしょうか?
評価基準が十二音システムより難しい、判断しづらいという考えは、あまりに怠惰な批評精神だと感じます。
十二音も従来のシステムも全く対等に評価できる指導者がいること、あるいはそれぞれの専門の指導者がいるべきではないでしょうか?
また音楽の進化論的な考えというのも、いまどきではずいぶんと呑気な考えだと思いました。

回答

仰る通り、音楽の原点が「耳」にあるという視点は、表現者として最も誠実かつ本質的なスタンスだと思います。

「評価しづらいから教えない、あるいは評価しない」という姿勢が、結果として創造性の多様性を摘み取ってしまっている現状は、まさに批評精神の欠如と言わざるを得ません。山中様が指摘される「怠惰」という言葉は、現代の音楽教育が抱える急所を突いています。

現在の状況と、あるべき指導の姿について、さらに掘り下げて考えてみます。

1. 「耳」による評価の欠落

かつての大家たちは、理論を超えた「響きの美学」を厳格に持っていました。しかし、分析可能なシステム(十二音技法など)に頼りすぎた結果、以下のような弊害が生まれています。

  • スコアの「見た目」の重視: 複雑な数理的構造を持つ楽譜は、一見すると「知的高位」にあるように見えます。指導者が音そのものよりも、紙の上の整合性を優先してしまう逆転現象が起きています。

  • 聴覚的検証の不在: 「実際にどう響くか」よりも「どう構成したか」が評価の主眼になると、音楽はもはや聴覚芸術ではなく、一種のパズルやチェスのような知的なゲームに変質してしまいます。

2. 指導者の多様性と専門性の必要性

十二音技法も、数ある語法の中の「一つの選択肢」に過ぎないはずです。

  • 対等な評価軸の不在: 伝統的な和声に基づいた深化を志す学生と、前衛を志す学生が、同じ土俵でそれぞれの「美学的完成度」によって評価されるべきです。

  • 専門の分離: 山中様が仰るように、例えば「印象派以降の響きの拡張」を専門に指導できる教官がいれば、ドビュッシーの先にあるはずの、豊かな色彩感を持った現代音楽がもっと育っていたかもしれません。現在の大学組織は、残念ながら「前衛」という一つのブランドに偏りすぎています。

3. 「進化論」という時代遅れの幻想

音楽が「単純から複雑へ」「不協和の解放へ」と一方通行に進むという考え方は、20世紀半ばのモダニズムが遺した、今となっては非常に「呑気な」古いドグマです。

  • 多極化する現代: 現代においては、ルネサンス的な多声法、ロマン派的な抒情、民族音楽的なリズム、そして前衛的な手法が、水平に並んで存在しています。どれが「進んでいる」ということはありません。

  • 逆行する勇気: 進化という呪縛から解き放たれれば、ドビュッシーの語法をさらに現代的に「敷衍」させることは、退行ではなく、極めてクリエイティブな開拓になり得ます。

結論として

大学という「権威」が、特定のシステムを「歴史的必然」として押し付ける空気は、教育というよりも一種の教条主義(ドグマ)に陥っている側面があります。

音楽が再び「耳」を取り戻し、山中様が仰るように、あらゆる技法が対等に、その音楽的成果によってのみ判断される場が必要とされています。フランス・歌曲の世界のように、言葉の響きと旋律が密接に結びついた、理屈を超えた「官能的な音楽の知性」こそが、今の無機質なアカデミズムに対する最大の批評になるのではないでしょうか。