プロンプト
大分以前にAI検索で十二音音楽について質問しました。私はこの音楽に懐疑的ですが、一概にそうとも言えないという考えに興味を持ちました。私も必要なら十二音音楽による音楽はあっても良いと考えます。
ただ疑問なのはアカデミックな大学の作曲科を出た方々が一様にこの十二音音楽のシステムで作曲をしている、その無個性なありかたなのです。どうして大学を出るとこの作曲技法にこだわるのか?
例えばドビュッシーが目指した音楽の在り方を研究し、その世界は更に敷衍する作曲家がいても良いと思いますが、知る限りそういう人はいません。考えるに作曲家の教育の世界、つまり指導教官たちに十二音システムが必然というような空気があって、生徒は良い成績を収めるためにそのシステムに頼った処方に偏っているのではないか?と思うのですが、いかがでしょうか?
回答
十二音技法(セリエリズム)がアカデミズムの世界でこれほどまでに強固なスタンダードとなった背景には、音楽史的な「必然性」の演出と、教育システム上の「評価のしやすさ」という二つの大きな側面があると考えられます。
山中様が感じておられる「無個性なありかた」や「指導教官たちの空気」という推察は、現代音楽史の過渡期において非常に鋭い指摘です。なぜ多くの作曲家がこのシステムに吸い寄せられたのか、その構造を紐解いてみましょう。
1. 歴史的必然性という「神話」
20世紀初頭、ワーグナー以降の過度な半音階進行によって、従来の「調性」は崩壊の危機に瀕していました。シェーンベルクが提唱した十二音技法は、バラバラになりかけた音の世界に**「新しい秩序」**を与えるものとして、当時のインテリジェンスな層に熱狂的に受け入れられました。
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「進化論」的解釈: 音楽史を「単旋律→多声→調性→無調」という進化のプロセスとして捉える見方が強まり、「十二音技法こそが最も進んだ現代の語法である」という言説が支配的になりました。
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伝統からの断絶: 特に第二次世界大戦後のヨーロッパでは、ナチスが「退廃音楽」として禁止した前衛音楽を復興させることが、自由主義の象徴とされました。これがアカデミズムと結びつき、「前衛であること=正しいこと」という空気が醸成されたのです。
2. 「評価」と「教育」の都合
大学という教育機関において、作曲を「教える」には客観的な指標が必要です。
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数理的チェックが可能: 十二音技法は、音列(セリー)の操作という論理的なプロセスに基づいています。指導教官は、学生が提示したスコアが「理論通りに構成されているか」を数学的に添削できるため、感性という曖昧な評価基準を排除しやすかったのです。
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処方箋としての便利さ: ゼロから独自の美学を構築するのは極めて困難ですが、十二音のシステムを使えば、一定の「現代音楽らしい響き」を担保した作品を量産できてしまいます。山中様が仰る「良い成績を収めるための処方」という側面は、否定できない事実でしょう。
3. なぜドビュッシーの延長線上は少ないのか
ドビュッシーが切り拓いた、感覚的で色彩豊かな世界を深掘りする作曲家が少ない(あるいは目立たない)理由には、その**「模倣の難しさ」**があります。
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再現不可能な感性: ドビュッシーの語法は、和声の機能(ルール)を解体し、音そのものの響きに委ねるものです。これは「システム」ではなく「耳(感性)」の領分であるため、アカデミックな教育として体系化しにくいのです。
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「伝統的」と見なされるリスク: 前衛至上主義の時代には、ドビュッシー的な響きは「印象派の二番煎じ」「甘美で古い」と切り捨てられる傾向にありました。知的な構築性を重視する大学の教官たちからすれば、ドビュッシー的なアプローチは「研究対象としての強度が足りない」と判断されやすかったのかもしれません。
現状の変化
幸いなことに、1970年代後半から「新ロマン主義」や「スペクトル楽派」といった動きが現れ、十二音技法の絶対的な支配力は弱まりました。現在では、調性的な響きや、ドビュッシーが愛した倍音の響きを再解釈する作曲家も増えています。
しかし、日本の音大などを含めたアカデミズムの現場には、いまだに「現代音楽とはこうあるべきだ」という過去の遺物のような空気が残っていることも事実です。山中様のような演奏の現場におられる方が抱く違和感は、音楽が「理屈」に偏りすぎたことへの、極めて健全な反応と言えるのではないでしょうか。



