アンリエット・ピュイグロジェ

ふとしたことでピュイグロジェ先生を思い出し、船山信子編「ある『完全な音楽家』の肖像」という本を入手した。
読み進むにつれて彼女の演奏が思い出され、CDをアマゾンで見つけ購入した。
聴いてみるとかつて聞いた彼女の演奏の凄さがじわじわと思い出され、インスパイアされてこのブログを書くことに。

先生との接点は、公開レッスンである。
履歴を調べたところ、1985年に原宿のカワイミュージックサロンでレッスンを受けたことになっている。

この時のことは覚えているが、自分の歌に関して何を言われたのか?全く覚えがない。
恐らく下手だったので言うに事欠いたのだろう。。

ただ伴奏ピアニストには断固たる注文をつけ、反論は受け付けずにべもなかった。
それほどに厳しかったことが強い印象として残っている。

全員のレッスンが終わると外は土砂降りの雨だった。
なぜか?私のようなぺいぺいがボロ車で巣鴨の官舎まで送り届けることになった。
多分公開レッスンの主催は私の当時の師匠だったからだろう。
小さなおんぼろ車の中で、私の拙いフランス語で先生と会話をしたのだが、先生の偉ぶらない対応に大変に恐縮したことも記憶に強く残っている。

彼女の演奏で強く記憶に残っているのは、独奏ではなく伴奏である。

一つはモーツアルトの「すみれ」
前奏の単純な和音がホルンの合奏のように聞こえたこと。
それから、フォーレの「愛の夢」
前奏が実に荘重で弦楽合奏のように聞こえたこと。
この曲は普通に演奏すると、ただの古臭いシャンソンに聞こえるのだが、まるで違って純然たるクラシック音楽だったのである。
いずれも、ピアノという楽器ではなく、室内楽のように聞こえたことに大きな衝撃を受けたものだった。

それまで、ピアノという楽器はピアノである、という当たり前のように考えていた自分の感覚の基本が覆された思いであった。
こういう演奏があるのだ、こういうことが出来るのだ!という驚きで目からうろこが落ちる想いであった。

あれから37年の経験を経て判ったことは、彼女のピアノのタッチコントロールが並外れて広いことである。
つまり強弱から音質までをタッチで完ぺきにコントロール出来るということだろう。

ピアノという楽器が持つ可能性の大きさ広さということを、我々はもう一度見直しても良いのではないか?
それは音楽美の芸術を極める、という飽くなき探求心を持つことに尽きるだろう。