楽しみにしていたのだが、やや不消化な印象。

発声練習を少し。
上向形5度スケールで2点b、3度5度アルペジョで3点Cまで。
やや横開きで薄い響きになり勝ちな高音をしっかり上顎から鼻腔に響かせるように、
口を縦に細く開けて出すようにしてみた。
やや力んでしまっていたけど、思いもよらない立派な高音が出せていた。

二人に先ず言いたいのは、演奏は大きなホールでやるわけであって、レッスン室が基準ではないよ、ということ。
勿論、これはイメージ力と経験がないと難しいけど、二人ならそれが想像できるだろう。
大きなといっても、今度のホールは70人あまりの小屋だが。
だけど、少なくともレッスン室よりははるかに大きいし、お客さんは70人も入るわけだ。

もっと大きな音楽を演奏を目指して欲しい。
ピアノの音や声量が豊かな演奏という意味だけではない。
構成、演技、ニュアンス、という意味。

歌手さんに関して言えば、たとえばモーツアルト。
夜の女王だったら、もっともっと夜の女王の懇願、悲しみ、悲痛な思いを旋律に形に表して欲しい。
それは響きだけでなくて言葉の重さが旋律の響きと形を生み出す、という順番で考えてみて欲しい。

それから、レッスン時にはあまりうるさく言わなかった後半のメリスマ部の声。
今日は調子のせいもあったのか、あるいはピアノを弾かないで客観的に聞いていたせいか、どうも弱い。
それは声量という単純なことではなくて、響きがもう一つはまっていない印象が強かった。

声枯れを気にして、課題にしているのは良く判るのだが、歌っていてまさかそれだけを目的にしていないだろう。
完全な発声はいつも出来るわけではないし、増して本番、あるいは本番を想定している時は良い発声だけが目的ではなくて
音楽を歌う演技する集中力を目的にして欲しい。判っていると思うけど、敢えて。

メリスマは特に昇りの形では、クレッシェンドを心がけて、高音に行くほど大きく広がる響きをもっと追求して欲しい。
そのために、練習段階では16分音符の固まりを1つか2つにまとめて、練習してから、細かく砕いて行って、という方法も良いだろう。
そうやって、息の膨らみを身に付けてから、細かくして練習して、最終的には楽譜どおりで歌う、そしてテンポを徐々にアップしていく、という手順だろうか。

なぜなら、このコロラチューラは人並み外れた人間ではない超越した存在なわけだから、コケティッシュな色気を売り物の
女性像のコロラチューラではないと思う。
そういう意味でも、後一歩の重さ、偉大さみたいなものを声で表現して欲しい。

伴奏の音楽の重さももっと欲しい。
アレグロマエストーゾの始まりの前奏。
そして、女王がいよいよソロを始める前の部分はどういう音楽になるかな?
お客さんは固唾を飲んで聴いているだろう?
最後の付点のトゥッティの和音はフォルテだ!
さあ!いよいよ女王の登場だ!

ところが、この付点の和音が軽すぎてさっさか弾かれたらどうなるだろう?
ずっこけちゃうのではないかな?せっかくかっこつけて出て来ても、どこ見て歌っていいのか判らなくなる感じ。

演奏なんて極言すればかっこつけて演奏すれば、お客さんはかっこえ~!と思う所に妙味があるのではないかな?
という見本みたいなものだ。
マエストーゾというのはそういう面が大きいと思ってごらん。

これはテンポの考え方が一つは大きいといえば大きいか。
イメージ通りというか、悪い意味で楽譜通りというか、盆栽的なミニチュアな音楽になっている。
音楽は必ず空間に反響するから、その分を考えて響かせて聞かせる間合いをいつも考えて欲しい。
録音で聴いたオケがこのテンポ、と思っても、実際は大きなホールでは何十人の奏者が一斉に弾いたりしているわけで、
ピアノでそれをやろうと思ったら、勢い重くなるはずではないかな。

早いテンポになると正確な細かいビートがなくなって、指廻りが滑って先に進んでしまうので、どうにも座りの悪いアップテンポの音楽になってしまう。これらの技術的な問題を解決することも必要だが、これは長期的な課題であって、後1ヶ月の場合は、現実的な対処が必要ではないか。要するに指示のテンポよりも確実なテンポを選んだほうが、良い、と私は思う。
その方が余程音楽は大きい。

「こうもり」のアデーレのアリエッタは、もっと言葉の意味からくる発音の強調、あるい発音を表している音形の強調や
むしろデフォルメくらいの意識を持って欲しい。
旋律の中にそういう形の基本がシンプルに現れているだろう。
そういうものをつまみ出して、お客さんの耳に押し込めてやるくらい、少ししつこいくらいにはっきりと表して丁度良いくらいである。
こちらの後半の高音も、今日はちょっと弱い印象で、綺麗というのとは違う感じがした。

伴奏は、前奏で表情を極端過ぎるくらいつけて欲しい。やり方は楽譜に書いてある通りで良いと思う。
問題は、それが聞いている人がはっきりに認識できるくらいに、という意味である。
そしてアリアになったら、せっかくのワルツだ。
これもかっこつけて、あるいはもっと遊んで、ウィーン風なワルツをやってみてはいかがだろうか?
洒落のめすとか、色っぽくという言葉がある。
この音楽は徹頭徹尾それを実現する方向で行って欲しい。

今回、2曲とも正反対の傾向だけど、表現という面で同じ観点がある。
もしかして表現するのが恥ずかしい、と思う面があったら、それは表現する可能性を持っている、ということだ。