SM

デュパルク「フローレンスのセレナーデ」「ため息」
ドビュッシー「放蕩息子」のアリア

彼女も、発声フォームの、特に声の出し始めにおけるポジションの持ち方を見直しました。

確かに低音発声で響きが出ない改善のために、低い音域を高く持ち上げた出し方の必要はありますが、これが換声点にまで及ぶと弊害が大きいです。
実際に、今回のデュパルクの歌曲の音域は、ト音記号の5点Cから上が多い場合、声の響きが高く鋭くなり、非常に聴きづらい声になります。
声は通るかもしれませんが、音楽的な印象が薄らぐでしょう。

高くなりすぎた喉を矯正する簡単な方法として、目的音のオクターブないし5度や3度下の音程を発声し、そのときの喉の状態のまま、元の音程で歌いだす、という方法です。

もっと簡単に書くと、歌を歌うときに、必要以上に目から上を意識しないで、むしろ首から下で歌う感覚が良いのです。
やたらと目をむいた顔にしたり、頬を上げるフォームを取らないで、能面のような顔で歌ってみると、感覚が分かるかと思います。

特に音程を跳躍させる際に、頭部に上げないで、首から下を意識すること。
その際に、喉を下げる感覚も必要ですが、彼女の癖は口と舌根で喉を下げる癖が、悪い方向に働きますので、気をつけてください。
喉仏を下げる、と思わないで、むしろ物を飲み込む感覚の方が良いかもしれません。

SNM

ドビュッシー「星の夜」
サティ 「あなたが欲しい」
團伊玖磨「藤の花」
カタラーニ「ワリー」のアリア「さようなら、故郷の家よ」

どの曲も、良くさらえていました。
ところどころ、
「星の夜」は、これもポジションに気をつけると、中低音の息漏れ傾向が減るし、良く響きます。
また、中高音の5点C~くらいで、喉が高すぎない落ち着いた声の響きが出せるでしょう。

サティのJe te veuxは、成熟した女性のもつ色気が感じられる歌声でした。
若々しさ、という面をいうのであれば、声帯そのものに集中して、ビブラートがないように歌うことと、ピッチを高めに取ることをお勧めします。

「藤の花」は良く歌いこまれており、なかなか良い表現に達していました。
日本的な内に秘めた情熱のような雰囲気が、歌声として良く表現されていると感心しました。

「ヴァリー」のアリアは、迫力ある最高音でしたが、ちょっと間違えると喉に行きそうです。
やはり、フレーズ中のN’androから、喉を開けた状態を保って、舌だけ動かしてLontanaと発声してほしいところです。
どの曲もですが、もう少し声の出し始めのポジションを深くしても良いと思います。
その方が中低音の声も息漏れが少ない声になるし、換声点から上も喉を開けやすい発声になるでしょう。

ST

ドナウディ O del mio amato ben 
そして、Freschi luoghi prati aulenti

まだ、体幹が決まっていない感じで、声のポジションが高くなりがちです。
それでも、発声練習では、良く喉を開けていたせいで、換声点のピッチが悪くなりがちだった癖が消えていました。
また、響きも前に出てくるようになりました。

一番簡単な方法は、発声を首から上の部分に関与させないことです。
発音も音程跳躍も、胸の中で行う感じを実行させてみると、非常に安定するようでした。
音程が跳躍する時に、無意識で頭に向かってしまうと思いますが、それを逆に喉を開けて胸の方で響かせるくらいにしてみます。

実際に自分が耳で聞こえる声は、想像以上に太く低い場所で響く意識くらいで、彼女の場合はちょうど良いと思います。
その状態を意識した歌い方で、換声点の通過を上手く対処できるようになったら、改めて頭声発声の部分的な開発に戻ればよいと考えます。

OS

プーランク、「矢車菊」4つのアポリネールの詩から「うなぎ」「ハガキ」

彼のバリトンの素質を改めて評価すべき、良い歌声を聞かせてもらえました。
この数ヶ月で、急速に声の素質を伸ばしたと思います。

「矢車菊」は、音域的にはテノールにも相応しいですが、むしろバリトンの声のポジションにこだわると、より真実味のある唄になると思いました。
ここでは、なるべくファルセットにしない発声も大切です。

「うなぎ」は、ほとんどほとんど地のままで良い歌の表現になっていますし、「ハガキ」は、本当にメロディが持っているメランコリーが歌声に表現されます。
それは、作り物、借り物の、いかにも頭で考えました的な表現ではなく、心の中からしみだしてくる歌声の表現になっています。

後は、フランス語の発音をもっと明快にはっきりと出来るようになると更に良い演奏になるでしょう。
特に「うなぎ」は、明快に語ってください。
「ハガキ」も基本的な歌声の憂鬱さみたいな表現は良いですが、歌詞を明快に歌えると、より歌として完成された味わいになると思います。
直観的な美だけではなくロジックとしての美しさみたいなものが加味される、ということでしょうか。