母音のア、オが喉に力みが出やすいのと、それと呼応するように軟口蓋が下がる傾向があり、それが特に2点Fから上の領域で、喉が突っ張ったような現象になっている印象がある。

以前から指摘しているように、母音をエにすると、自然にその傾向がなくなるのは、エという母音を形作る舌根の盛り上がりが、喉を必要以上に下に下げる点を緩和することにあるのではないか?という見解を持っている。

言いたいことは、ある程度の声を出す、お腹からのしっかりした声を出すためには、喉頭がブラブラではいけないので、喉頭を下げる方向に行くのだが、それだけだと高音が出しづらいし、音程も悪い。

それで、軟口蓋を上げることで、いわば上下に喉頭を引っ張って、均衡を作るわけだろう。
あくまで、これは均衡であって、どちらかに偏り過ぎると、音域によっては、破綻をきたすわけである。

また、ここが重要だと思うのは、喉頭を引き下げるために本来使われるべき筋肉あるいは神経系統を働かせるのではない、あるいは働かせられないために、舌根で擬似的に下げる人がとても多い。
かく言う私も体が疲れるとそうなる。

喉頭は下げさえすれば良い、のではなくて、下げ方、下がり方、が大切なのである。
のろのろと、舌根で喉を下げて、さあ声を出しましょう、、と言う形で出しても、それは似非の喉頭引き下げ準備になる。

だらだらと長く書いてしまったが、彼女にはそういう面を極力排してもらいたい。
要は、不必要な悪い意味での発声の準備をすることよりも、どういう声を出すか?という意識さえあれば、それだけで自然に喉も身体も準備してくれるよ、と考えで欲しいのである。ブレスですらも、である。

そして、そうやって出る声が、か細くてもそれが始まりだ、と思ってやって欲しい。
自然な身体の欲する声から、少しずつ声は成長して行けると思う。

今日も日本歌曲のレッスン。
こちらも彼女のおかげで日本歌曲の素晴らしさに目覚めることが出来た。感謝である。
今日の一番の収穫は、中田先生の「すずしきうなじ」
前回より、少しテンポを遅めにして練習した。
歌声は、音域のせいもあり、破綻は無い。
後は、言葉が分かりたかった。

再度練習してみると、子音が弱い。
特にはひふへほ、さしすせそ、たちつてと、である。
それを直して再度歌ってもらうと、それだけで言葉がピアノ伴奏のアルペジョの上を滑るように聞こえてくる。
まるで風に乗って遠くから聞こえてくる音楽のようだ。
素晴らしい!と思った。
言葉が感覚的に理解できる、歌の有り難味。
ここにこそ、ネーティヴ言語で歌う、あるいは歌を聞く喜びがある、と思う。

こんな瞬間が、今の自分にとっての、最高の音楽体験である。
どんなプロの凄い演奏よりも、貴重な瞬間。

後は、室生犀星詩、石田純雄作曲の「ふるさとは」
やや難解な、しかし滑稽な、狂言を思わせる歌。
これはソルフェージュ的というより、歌う表現として難しい。

その前に、声を張りすぎないこと。
特に高音域は、張らないで楽に、軽くで良い。
後はリズムの緩急に気を付けて。

最後に「荒城の月」
実を言うと、この曲が自分にとって一番難解である。
伴奏も山田耕筰版だが、どうも退屈だ。

この伴奏だと、声楽的なクオリティが高くないと、音楽的な効果が出ない。
だが、そういう歌としての可能性しかないのだろうか?

それはともかく、高音域の子音の処理について。
要するに喉が締まらないような、子音処理を。
Kなどは、口先を開けたまま出来るように。
他の子音も極力口先を開けたまま出来ると、高音の発声でも喉を締めずに言葉を処理できる。
慣れないと、歌詞としての明瞭度に欠けるのは、致し方ないが、喉の締まった苦しい声を出すよりはるかにましである。
慣れてくると、口先をそれほど開けなくても出来るから、先ずはこれに慣れて欲しい。